東神田の町名由来とは?

町名由来板によりると東神田(旧・橋本町、江川町、富松町、久右衛門町)ひがしかんだ(はしもとちょう、えがわちょう、とみまつちょう、きゅうえもんちょう)


現在の東神田(ひがしかんだ)界隈(かいわい)には、かつて橋本町(はしもとちょう)、江川町(えがわちょう)、富松町(とみまつちょう)、久右衛門町(きゅうえもんちょう)といった町がありました。
江戸城の東に位置するこのあたりは、江戸時代のはじめには多くの寺院が集まる寺町でしたが、相次ぐ大火でこれらの寺はあちこちに移転しました。
天和(てんな)二年(1682年)の大火(八百屋お七の火事)の後、願行寺(がんぎょうじ)は駒込(こまごめ)に、法善寺(ほうぜんじ)と本誓寺(ほんせいじ)は深川(ふかがわ)に移りました。その跡地に開かれたのが橋本町です。橋本町の町名は、牛馬の売買や仲買をする幕府の博労役(ばくろうやく)の橋本源七(げんしち)がこのあたりに土地を与えられたことにちなんだといわれています。この町の南に接する馬喰町(ばくろちょう)(現・日本橋馬喰町)にも博労が住んでおり、馬市が盛んに開かれていたそうです。
江川町は宝永(ほうえい)年間(1704年~1711年)に開かれた町で、伊豆韮山(いずにらやま)の代官(だいかん)江川家の屋敷があったことから名付けられた町です。
富松町、久右衛門町は、享保(きょうほう)三年(1718年)の火災ののち、神田川北岸よりこの地に移ってきた町です。
関東大震災(大正十二年・1923年)後の復興計画にあたり、江戸時代から連綿と続いてきた町名が大きく変わることになりました。昭和九年(1934年)、橋本町、江川町、富松町、久右衛門町が合併して東神田になり、昭和十三年(1938年)には東神田町会が成立しました。昭和四十年(1965年)、住居表示の実施により、東神田は東神田一丁目(ひがしかんだいっちょうめ)と東神田二丁目(ひがしかんだにちょうめ)に再編されました。

東神田3丁目は佐久間町と隣接しているためか火事が多かった佐久間町の影響があったようですね